逝ってしまった巨人~瀕死のFIATを蘇らせたMarchionne~

 2018年7月22日、ジョン・エルカンFCA会長の発表を受けたマスコミは、一斉に Sergio Marchionne(セルジョ・マルキオンネ)の危篤を報道した。その僅か1ヶ月前の6月25日、彼がローマで憲兵隊にFCA(フィアット・クライスラー・オートモービルズ)のジープを献呈する姿を目にしていた人々は、文字通り度肝を抜かれた。

 マルキオンネが再起不能の状態に陥ったことについてエルカン会長は、「数時間前までは想像もしていなかったことが起こった。こんなことになるなんて酷すぎる」と、関係者にとっても青天のへきれきであったことを仄めかした。当初は「右肩を手術した」としか公表されていなかったが、後の報道で、悪性の肉腫の手術後に急に容体が悪化した事実が明らかになった。会長はマルキオンネがもはやCEO(最高経営責任者)を継続できないことを社員に告げ、早急に重役会議を開き、マイク・マンリー氏(傘下の「ジープ」ブランド」責任者)を後任に選出した。

 6月27日からチューリッヒ大学病院で集中治療を受けていたセルジョ・マルキオンネは、妻と二人の息子が見守る中、7月25日帰らぬ人となった。66歳になったばかりだった。

マルキオンネ、アニェッリ家に呼ばれる

 1952年6月17日、セルジョ・マルキオンネはアブルッツォ州キエーティに生まれた。父親はカラビニエーリ(国家憲兵)だった。14歳の時、両親と共にカナダ、オンタリオ州の叔母の元へ移住。トロント大学で哲学博士の学位を取得後、カナダのヨーク大学で法学博士、ウィンザー大学でビジネス・アドミニストレーションの修士号取得。1983年、税務部門専門弁護士としてデロイト&トウシュに就職したあと数社を渡り歩き、2000年にはスイスの製薬会社ロンザ・グループの代表取締役として頭角を現す。そして2002年、経営危機にあったスイスの大監査法人SGS社の再建に成功し、一躍その名が知られるようになった。

 翌2003年、まさにSGS社のクライアントであったFIATのウンベルト・アニェッリ会長から直々の申し出を受け、マルキオンネは同社重役会の一員になった。

 2002年1-3月期、FIATは存続の危機に瀕していた。もう何年もヒット商品を出せず、一日当たり500万ユーロという莫大な損失を計上。国際的な企業同盟を結んで国外に進出する試みも空振りに終わるばかり。FIAT所有者のアニェッリ家は将来を見限って、あと何年かで米国ゼネラルモーターズ(GM)に会社を引き取ってもらう決心をしていた。

 戦後、FIATはイタリア唯一の自動車製造会社として競合他社もなく、「イタリア」という、文字通り温室の中での消費に頼って存在し続けて来た。国は外国産の車に高い関税を掛けて輸入を抑制し、民間企業であるにもかかわらずFIATを優遇。3万もの従業員を抱える、イタリアでは数少ない大型企業であったため、「国営的企業」として国の補助が様々な形で与えられた(国民の間でもFIATで働く人はエリートとして一目置かれたものだ)。つまり、国の補助があるが故に、特に利益を生み出す必要がなかった訳だ。

 風向きが変わったのは、欧州共同体が形成された90年代だ。市場が国外に開かれ、イタリアを含むEU諸国は他社との競合を余儀なくされた。FIAT社にとっては目指していた国際市場への扉は開かれたものの、国からの援助や保護は以前のように受けられなくなった。そして、他国の自動車メーカーをはじめて目の当たりにして、FIAT社の製造技術や会社の構造、マネージメントに至る全てが「いかに時代遅れなものであるか」を思い知ったのである。しかもそれにどう対処して良いかさえも分からない状態であった。

Sergio Marchionne presso New FIAT 500 presentation show ©Mauro Scrobogna

 マルキオンネが呼ばれたのは、ちょうどそんな時だった。アニェッリ会長から直々に声がかかってFIAT社の一員になり、翌年2004年6月1日、早くもCEOに就任。創設者家族の最後の会長ウンベルト・アニェッリ死去の、数日後のことだった。

 CEOに着任するや、マルキオンネは会社をどん底から救うべく、合理化と、官僚主義的側面の排除に全力を尽くした。不要な管理職を何十人も解雇し、内部組織をひっくり返して単純化した。そして自動車の生産に集中するため、保険や航空といった、それまで抱えていた部門(車に関係のない部門)を手放した。FIATグループを設立し、「FIAT」「Alfa Romeo」「Lancia」「Abarth(アバルト)」の4ブランドに分けて経営の合理化を図った。更に、ゼネラルモーターズが経営難のFIATとの提携(2000年より提携していた)を一方的に解消してきたことによる違約金を、自社の負債の返済に充てることができたと同時に、FIATグループの独立性を保持することに成功。このような様々な改革が功を奏して、翌2005年には早くも黒字に転換した。2008年、英国の経済誌『エコノミスト』は「トリノの奇跡」と呼んで蘇ったFIAT社を称賛した。

 だが息をつく間もないまま、1929年の世界恐慌にも匹敵する大規模な経済危機の波が押し寄せる。景気が後退し、消費が収縮する中、クライスラー、フォード、GMといった、FIATの規模を遥かに上回る米国自動車メーカーでさえも危機に陥った。自動車の販売数に比して抱えている従業員や工場の数が多すぎるFIATは、再度試練にさらされた。マルキオンネは生き残りを掛けてOpel(独)、GMなどの大企業と合弁するための交渉に奔走するが、合意は得られなかった。

 最終的にオバマ大統領の仲介で、同様に経営難に悩むクライスラー社の資本の買収に成功する。2014年、この二社が融合してFCA(フィアット・クライスラー・オートモービルズ)という多国籍企業が設立された。登記上の本社はオランダ、税務上の本社はイギリスに置かれ、多分にイタリア色を失うことになったが、売り上げ台数は470万台と、それまでの倍に跳ね上がった。内外の総従業員数は30万人となり、イタリア国内においても雇用者数8万を保持することができた。米国における労働環境とイタリアのそれとの格差を解消するため、「労働組合に守られたイタリアの労働の仕方や環境」をアメリカ式に合理化・厳格化した。結果、FIOM(金属加工労働組合)などとの対立を余儀なくされたものの、順調に収益を上げ、販売台数で世界第8位にのし上がった。瀕死のFIATをここまで押し上げたのは、ひとえにマルキオンネの腕と努力によるものだ。

巨人を亡くした今、信用不安

 後任のマイク・マンリー氏は、FCA傘下の「Jeep」部門と「Ram」部門を蘇らせた英国人の敏腕CEOだ。マルキオンネの死去が伝えられたその日、同氏は四半期の決算報告を行い、負債ゼロは達成できたものの、2018年度の収益については期待薄だと述べた。これを受けてFCA関連企業の株価は大幅に下落(-15.5%)し、同社の将来に対する信用不安が明るみに出た。

 フィアットを再生させることでイタリア経済と雇用の活性化に尽力したマルキオンネはもういない。あるのは、英国人の次期CEOと、輸入製品に高い関税を掛けて保護貿易に走るトランプ大統領の米国だ。世界市場の風向きが変わろうとしている今この時、イタリアは最も必要とする人物を失ったのだ。

Masao Yamanashi

foto: ©️Dgtmedia-Simone /Creative Commons

(Ciao! Journal no.15 2108年9-10月号より)

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