ミラノは忘れない ~ホロコースト生存者にボディーガードがつく事実~

 ミラノ中央駅は白い大理石で覆われた巨大な駅だ。正面の大階段を上りつめると幾つものプラットホームが並び、毎日何千人もの乗客が発着する。イタリアばかりか欧州各国とを結ぶ重要な中継地だ。同じ構内でも、そんな雑踏から離れた場所に21番線(Binario 21)はある。そこに行くには駅の右手を10分近く歩かなければならない。そのプラットホームだけが奥まった所にあるのは、当初(1931年)貨物列車専用線路として作られたためだ。そして1943年12月から44年5月にかけて、アウシュビッツやマウトハウゼンなどの強制収容・殺戮所にユダヤ系イタリア人4万4000人を送り出したのが、正にこのホームだった。

リリアナ・セグレ

 終生上院議員リリアナ・セグレは、1930年にミラノ市内の裕福な家庭に生まれた。母はリリアナが1歳にならないうちに亡くなり、父のアルベルトに育てられた。彼女が「ユダヤ人であること」の意味を知ったのは8歳のとき。1938年「人種差別法」の施行により、それまで通っていた学校から突然追い出されたのだ。「同級生たちは町で会っても知らないふりをした。担任の先生が心配してくれることもなく、一度だけ出会った時に『こうなったのは私のせいじゃないから』と冷たく言い放たれ、その後会うことはなかった」。

 1943年7月ムッソリーニが失脚し、イタリアは9月に連合軍に無条件降伏する。これで戦争が終わったと思いきや、ミラノはその後20カ月もの間ナチス支配下に置かれることになる。逃亡したムッソリーニはドイツ軍に救出され、ナチスの傀儡政権「イタリア社会共和国」をガルダ湖畔に建国。ナチスは連合軍に対抗する目的でイタリア国内の戦略的地点に司令部を設置した。ミラノが占領されたのもこのためである。そして、それまではその権利を制限するにとどめていたユダヤ人たちを、殺戮目的で強制収容所に送り始めたのは、この時期だった。

リリアナと父のアルベルト/La senatrice a vita Liliana Segre da bambina e il padre Alberto(Wikimedia Commons)

 1943年、父アルベルトは13歳のリリアナと親戚2人を連れてスイスに亡命を試みる。だが国境で入国を拒否されて逮捕され、ヴァレーゼ、コモ、そしてミラノの刑務所をたらいまわしにされた。「スイスの国境にたどり着くまで、行く先々で逃亡を手伝ってくれた人々に相当な金額を払わねばならなかった。山道を上って国境まで着いた時、案内を買って出た人は私たちの持っていた鞄を取り上げて崖下に放り投げ、『そら、この鉄条網の向こうがスイスだ』と言い放って去った」「なぜこんな目にあわなければならないのか、私には全く分からなかった。悪いことは何もせず、普通に生活していただけなのに」「父は、生まれさせてごめん。と言いながら私を抱きしめて泣いていた」(セグレ氏談)。

 1944年1月、SSに引き渡された一家は、ミラノ中央駅の21番線で封印貨物列車(vagone piombato)に押し込められた。「車両の中は何もなく、下に藁が敷いてあるだけだった。そして用を足すためにバケツが一つ置いてあった。60人近くが一つの車両に詰め込まれ、闇の中でじっと立っていなければならなかった」。8日間、アウシュヴィッツに到着するまで。

 アウシュヴィッツに着いたリリアナは腕に「75190」と焼印を押され、女性収容所に入れられる。そこで精根尽きた父は僅か3ヶ月で死亡。リリアナは3度に亘る「選別」に「合格」し、生き延びた。「私は屋内の工場で働かされていたから生き延びることができたのだと思う。戸外で働く者はトラックから重たい石を下ろす作業を強いられていた。下ろされた石は別のグループによってまたトラックに積み込まれていた。私たちに課された労働はこのように全く意味を為さないものだったが、従わなければ撃ち殺された」。

 1945年1月、「ロシア軍がポーランドに侵攻して強制収容所解放のため接近中」の知らせが入る。するとナチスは収容者数万人を自国ドイツに連行する目的で、極寒の中50キロの道のりを歩くことを強いた(marcia della morte 死の行軍)

 収容所生活で既に弱り切っていた人々には歩く力も無く、力尽きて倒れると頭を撃ち抜かれた。「倒れたらおしまいだ。二本の脚で立てる限り交互に前に出して進むのだ」。4月30日、リリアナはドイツのマルヒョウで解放される。「その時、そばにいたドイツ兵が突如銃を放り出し、兵服を脱ぎ始めた。解放軍が来たのだ。その兵士は私たちと同じ囚人のふりをして助けを乞おうと考えたのだ。私は地面に投げ出された銃を見た時、それを拾って撃ち殺そうかと思った。想像を絶する苦しみと屈辱のどん底に私たちを突き落としたその兵士を」。アウシュビッツに送られた14歳以下の子供776人のうち、生存者は僅か20~30人(3%)であったとされている。そのうちの1人が彼女だった。

 生還後、彼女は何十年もの間、体験を話さなかった。「まわりにいるのは戦争のことなんか早く忘れて人生を楽しもうとする人ばかりだった。学生時代の友達に会ったとき彼女らは言った。あなたしばらく姿を見なかったけど、どこへ行ってたの?」。誰にも何も語らずあの世に行く決心をしていた彼女は、60歳の頃考えを変える。「ナチスの仕打ちを実際に体験した私が語らなければ誰にできるだろう。収容所で亡くなった父親のためにも語り継ぐ責任がある」。こうしてリリアナ・セグレ氏は、学校や集会などで特に若い世代に向けて体験を語るようになったのである。

 ファシスト政権の人種差別法施行日から80年目の2018年1月19日、マッタレッラ大統領は共和国憲法第59条に基づき、「イタリア共和国の価値を社会に普及させることに大きく貢献した」との理由で、セグレ氏を終生上院議員に任命した。

ボディーガード

 アフリカから欧州への移民流入が始まった2013年から年々激化している「反移民感情の扇動」(特にネット上の)を規制する目的で、セグレ議員は2019年10月、「ヘイト行為規制委員会」の設置を提案した。この案は可決されたものの、中道右派(レーガとイタリア兄弟)は棄権した。 

 彼女に対する極右系の攻撃が始まったのはそれからだ。ネット上での脅迫メッセージは今や1日200件を超え、彼女が出向く会場には横断幕の脅し文句が現れるようになった。ここにおいてミラノ県警はセグレ議員の身の安全を守るために、私服警官2名を護衛に付けることを決定したのである(2019年11月7日)。そのニュースを聞いたとき、国民の多くが動揺した。80年前と同じ時代に戻ってしまったのか。イタリア共和国憲法は「ファシズムの台頭を許さない」目的で編さんされたのではなかったか。我々は「民主主義」というものを十分に守って来たのか。89歳の、強制収容所からの生還者がいまだ攻撃の標的になるとはイタリアの恥だ。ネットで匿名なら何でも有りなのか。最低限の市民道徳はどこへ行った。無知な人間の考えのない行為に皆が負けた、と。

Liliana Segre(©Nadav levy/Creative Commons)

 ある大手新聞は、こんな風になるまで右翼による行き過ぎた行動を野放しにしたことを謝罪するかのように、「我々は皆がリリアナのボディーガードだ」の見出しを第一面に掲載した。そして11月11日には「Binario 21」の前に市民5000人が集まってファシズムと人種差別を糾弾するデモ集会が、12月10日には「ヘイトに未来はない」のスローガンを掲げて市長600人と市民数千人が集結し、ドゥオモ広場からスカラ座広場までセグレ氏に連帯するデモ行進が行われた。トリノやジェノバなど市町村が競ってセグレ氏に名誉市民権を授与する現象も起きた。ピエモンテ州ビエッラでは、彼女への名誉市民権授与の案を市議会が否決し、代わりに当地出身のコメディアン、エツィオ・グレッジョ氏に与えようとしたところ、グレッジョ氏は「セグレ上院議員を深く尊敬している。自分の父親も強制収容所に入れられた」と、これを辞退するというエピソードも生じた。

ミラノの傷跡

 華やかなイメージばかり先行するミラノだが、歴史の傷跡は市内のあちこちに残っている。否、ミラノの人々は忘れてしまわないように「傷を保存している」と言う方が正しい。中央駅21番線は現在ホロコースト記念館として当時の状況を再現している。セグレ氏の住んだマジェンタ通り55番地の舗道には「つまずきの石」(pietra d’inciampo=ホロコースト犠牲者の名、生年、死亡場所が刻まれている)が埋め込まれている。ダンテ通りのピッコロ劇場前ではムッソリーニが最後の演説をした。スカラ座広場にはナチスが占領して指令本部をおいた5ッ星ホテルがあった。ロレート広場ではムッソリーニの死体が吊るされ、見世物にされた。

 時にはこのような場所を訪れ、今築かれている平和が踏み台にしている歴史に真摯に向き合う機会を持ちたいものだ。

文・Masao Yamanashi
(Ciao!Journal n.23 「政界アラカルト」より)

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